私自身も夫と結婚する際(1991)、「いつになるか分からないけど、俺はいつかモナコに住むって決めてるんだ」と、遠い目?をして言われ、海外で暮らすなんてそれまでの30年間考えたこともなかった私は「え?なんでまた。一体それはどこの国?」ってぐらいの知識でした。
もちろん、私の両親ぐらいの年代の方は「あのグレースケリーが嫁いだコートダジュールにある小さな国」のことはご存知でしょうけれど。
ただその後、長女の妊娠、義母の死、出産と、それどころじゃない生活が始まり、にもかかわらず夫は義母の死以来、仕事をするエネルギーもなくなり、実際したくても仕事もなかったというのが正直なところでした。 |
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毎日子育て中心の生活をするばかりで(夫が)、明日の生活費は?という切羽詰った質問をするにも怖くて出来ず、私の中では「モナコ」の「モ」の字もぶっ飛んでました。
それから10年(この10年間のドタバタはまた別の機会に!)が経ち、私たちが実際モナコに住むことを決め、それを伝えた際、当時長女が通う東京のインターナショナルスクールのお母さんたちですら「え?どこにある国?」ていう程度の認知度でしたから、ここ数年の「モナコイコールセレブ」という日本のメディアの注目度にはびっくりさせられます。ガイドの方に聞くと、ここ数年訪れる日本人の数は圧倒して増えたそうです。ツアーの方にはバスの中から「ちなみに、ここがデューク更家さんのおうちです。」とアナウンスをされるととても受けるとか。
夫は若い時に色つきの夢を見て、その美しい光景に「あれはどこだったんだろう」とずっと探してたんですって。
その後何気なしに見た地中海を舞台にした映画の中で、モナコが描写されてた時に「あれはここだったんだ!」って鳥肌だったそうです。
それから夢中になってモナコという国について調べるうちに、波動といい、セキュリティといい、美意識の高さといい、生まれ育った故郷と同じ、海を目の前に従えたロケーションといい、「いつか必ず住みたい」ところになったそうです。 |
よく個人の方のブログに「モナコ在住だと所得税がかからず、デューク更家もそれがためモナコに住んでる」と勝手に推測していただいて、言い切ってくれてますが、いえいえ、夫は日本で仕事させていただいてますから、所得税だけにあらず、都民税も、区民税も、消費税も、(あたりまえですが)日本の税法でちゃんと納税しております。(その証拠に今はもう廃止になってしまいましたが、納税番付け表にも載ってましたでしょ。(笑))
先日、友人の紹介でスイスのプライベートバンクのヴァイス プレジデントを務める女性と話す機会がありました。
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その女性に自己紹介の後いきなり、「日本とモナコは租税契約がないから、更家さんのところは税金のメリットはないと思いますが、なぜモナコにお住まいになろうと思ったんですか?」と聞かれました。いきなりだったので、分かる人は分かってるんだと逆に納得もしましたけどね。
もちろんその後は「色つきの夢」の話で盛り上がりました。
でも、「いつか住みたい」と聞いていた程度だったので、本当に「いつか」(老後?)だと思っていました。
あの2001年に家族で訪れた初めてのモナコ旅行までは・・・・。
初めて訪れたモナコは私の心をぎゅううっとわし掴みにし、帰国してからもその思いは募るばかりでした。
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なにしろ太陽の輝きが違う、月だって線香花火の先っぽみたいにオレンジ色にぼってりとしていて幻想的、それに「海に浮かんでる」って絵ずらは「やられた」としか言いようがないほどきれいでしょう?
そして印象的だったのが、男も女も老若関係なく当たり前にかっこいい!
いや、年取ってる人の方が渋いのなんのって。
妊婦だってへそ出しファッションに女優サングラス、子連れママだってpucciやディオールのウインドウから抜け出してきたんじゃないかって迫力。そしてそんな見てくれ重視の国かと思いきや、何が感動したって、誰もが子供を見守る眼差しの暖かいこと。自分の子供だって、よその子だって関係なしであったかいのです。
ベビーカーでバスに乗ろうとすると、後ろの席や道路を歩いてるおじ様が飛んできて、「ジュブゼット?」(お手伝いしましょうか)と持ち上げてくれる。
日本のおじ様がた、本当にかっこいいのは、取って付けたレオン風ファッションではなく、こういう「熱さ!」ですよ、うん。
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「私もこんな国で子供を産んで、ゆったり子育てをしてみたい!」そう感じる心の声は、今となっては直感そのものだったのでしょう。
その翌月、ずっと欲しかった第2子の妊娠に気付いた時は「ああっ、このお腹の子は自分をモナコで産んでって言ってる!」と、思い込みの激しい私が一人で盛り上がるには完璧なタイミングでした。
そうなるともう誰も止められやしません。
「輝く太陽の中、海辺をベビーカーでお散歩。そして疲れたら、オープンカフェでクロワッサンとカフェオレ。カフェのかっこいいギャルソンとも「ボンジュール」「サヴァ?」なんて顔なじみになっちゃったりしてね。」
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「日差しがきついから、赤ちゃんだけでなく私も帽子が必要だわね。でも日本でかぶる黒とかブラウンじゃだめなのよ。鮮やかな日差しには鮮やかな色、オレンジとか、パープルとか、いやいや柄物もいいかもね。」
勝手なイメージは膨らみに膨らんでいきましたが、同時にお腹も膨らんでくるわけだから、一人勝手に創造を楽しんでるならともかくとして、これを実行に移すなら時間は限られてるわけです。
そこで何よりまずは、夫にドキドキのプレゼンテーションをせねば先に進みませんよね。
「年齢の事を考えると、多分この子は私にとって最後の子育てになると思うの。一人目の時は楽しいと言うより、余裕がなくて大変であっという間だったけど、今度の子とはゆったりした自分で向き合いたい。この子をモナコで生んで、ゆっくり子育てを楽しみたい。だから、「いつか」の予定を早めて「今」に軌道修正して欲しいんだけど」
10年ぶりの妊娠。40歳という高齢出産であるうえ、それまではしょっちゅう「あっち痛い、こっち痛い」と自称虚弱体質だったはずの私から、いきなりの「海外出産、子育て計画」を聞かされた夫は「もともと無茶な女やとは思うてたけど、今度はまた有り得ん無茶なことを言い出しよった!」
と思ったそうです。
私にしたら、いきなり「却下」ではなかったものの、夫の表情を見ているうちに、自分が言ってる事の無鉄砲さを自覚させられ、取り合えずそれ以上の深追いはしませんでした。
そして数日後夫から、「ようやく世の中の人が俺のウォーキングに耳を傾けてくれるようになった今、おれの仕事はこれからや。スタートラインに立ったばっかりや。まだまだ日本中を回って、一人一人の人に伝えていきたいことがたくさんある。せやから、お前たちと一緒にずっと向こうにいることは出来へん。
離れる時間が当然長くなるけど、それでもお前が大丈夫だと思えるんなら、お前の情熱を大事にしたらええ。もともと俺が大好きな場所や。家族がそこで待っててくれることは何よりも嬉しい、俺が毎月会いに帰るから。」
と私が予期せぬ答えをくれました。 |
そこで私達は話し合い、夫は3週間日本で目いっぱい仕事をし、残り1週間から10日はモナコでゆっくり家族と過ごすライフスタイルにしよう、それなら普通のお父さんたちが子供と過ごす休日の1ヶ月のトータルと変わりないんじゃないかと、そして夫もその間は家族のことを気にせず、思う存分仕事に専念できるんじゃないかと、夫婦のけっこうシビアな話し合いは毎日夜中まで続きました。
数ヵ月後12月に2回目に訪れたモナコは、グレースケリー病院で妊娠経過を診ていただき、ここで出産をしたいけれどそれが可能かどうかをドクターに打診、そして東京のインターナショナルスクールに通う10歳の長女の学校を決める旅でした。 |
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長女は学校があるので私の妹に来てもらい、夫は12月で特に忙しく、私が代表で下調べに出かけることに。
ドクターの返事は「順調ですね、何の問題もありません。貴方のしたいように」でした。
学校は各学年定員が決まっており、娘さんの学年に空きがあれば、同じインターナショナル同士なので現校の推薦状があれば試験もなしで入れるとのこと。
そして、恐る恐る長女の学年を言うと、「あっ、一席だけ空きがありますね。」と言われました。
私は街なかの公衆電話から日本で仕事をする夫に電話を入れました。
「!!!(最初言葉にならない)。すべてが私たちを歓迎してくれてるわ!」と。
もちろん、私がオメデタイと言うことは重々承知の上ですけど、でもそういうふうに思う時ってありません?
産婦人科の先生は、変わった人ねと言わんばかりの不思議顔で「お好きにどうぞ」と言っただけでしたし、学校もたまたま空きがあっただけのことなんですけど。
だけど、何をどうしてもこうしてもうまく行かない時、そういう時はそのまま強行しても、ろくな結果がついてこないけれど、なんだか、あれ?あれ?と、思ってた以上に事がスムーズに進んで、これはどこかにいる神様からの「Goサイン」かもって思える時ってないですか。
それ以上に夫が私の情熱を応援してくれたこと、私のことを無茶だと言わず「由美子さんらしくていい」と応援してくれた友人に恵まれたことも、それこそが私の幸せなところだと、今も限りなく感謝しています。 |