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MONACO DIARY/モナコダイアリー

モナコに住む
住むところ変われば、暮らし方も本当に変わります。「なぜ、モナコに住もうと思ったんですか?」
これは、必ず尋ねられる質問ですが、「マダム更家のモナコ日記」を再開するにあたって、原点であるここから書きたいと思ったのです。と同時に、あの3月11日の涙の成田のことをようやく書けるようになったからかもしれません。

私自身も夫と結婚する際(1991)、「いつになるか分からないけど、俺はいつかモナコに住むって決めてるんだ」と、遠い目?をして言われ、海外で暮らすなんてそれまでの30年間考えたこともなかった私は「え?なんでまた。一体それはどこの国?」ってぐらいの知識でした。
もちろん、私の両親ぐらいの年代の方は「あのグレースケリーが嫁いだコートダジュールにある小さな国」のことはご存知でしょうけれど。
 
ただその後、長女の妊娠、義母の死、出産と、それどころじゃない生活が始まり、にもかかわらず夫は義母の死以来、仕事をするエネルギーもなくなり、実際したくても仕事もなかったというのが正直なところでした。
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毎日子育て中心の生活をするばかりで(夫が)、明日の生活費は?という切羽詰った質問をするにも怖くて出来ず、私の中では「モナコ」の「モ」の字もぶっ飛んでました。
 
それから10年(この10年間のドタバタはまた別の機会に!)が経ち、私たちが実際モナコに住むことを決め、それを伝えた際、当時長女が通う東京のインターナショナルスクールのお母さんたちですら「え?どこにある国?」ていう程度の認知度でしたから、ここ数年の「モナコイコールセレブ」という日本のメディアの注目度にはびっくりさせられます。ガイドの方に聞くと、ここ数年訪れる日本人の数は圧倒して増えたそうです。ツアーの方にはバスの中から「ちなみに、ここがデューク更家さんのおうちです。」とアナウンスをされるととても受けるとか。
 
夫は若い時に色つきの夢を見て、その美しい光景に「あれはどこだったんだろう」とずっと探してたんですって。
その後何気なしに見た地中海を舞台にした映画の中で、モナコが描写されてた時に「あれはここだったんだ!」って鳥肌だったそうです。
それから夢中になってモナコという国について調べるうちに、波動といい、セキュリティといい、美意識の高さといい、生まれ育った故郷と同じ、海を目の前に従えたロケーションといい、「いつか必ず住みたい」ところになったそうです。 
よく個人の方のブログに「モナコ在住だと所得税がかからず、デューク更家もそれがためモナコに住んでる」と勝手に推測していただいて、言い切ってくれてますが、いえいえ、夫は日本で仕事させていただいてますから、所得税だけにあらず、都民税も、区民税も、消費税も、(あたりまえですが)日本の税法でちゃんと納税しております。(その証拠に今はもう廃止になってしまいましたが、納税番付け表にも載ってましたでしょ。(笑))
 
先日、友人の紹介でスイスのプライベートバンクのヴァイス プレジデントを務める女性と話す機会がありました。
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その女性に自己紹介の後いきなり、「日本とモナコは租税契約がないから、更家さんのところは税金のメリットはないと思いますが、なぜモナコにお住まいになろうと思ったんですか?」と聞かれました。いきなりだったので、分かる人は分かってるんだと逆に納得もしましたけどね。
もちろんその後は「色つきの夢」の話で盛り上がりました。
 
でも、「いつか住みたい」と聞いていた程度だったので、本当に「いつか」(老後?)だと思っていました。
あの2001年に家族で訪れた初めてのモナコ旅行までは・・・・。
 
初めて訪れたモナコは私の心をぎゅううっとわし掴みにし、帰国してからもその思いは募るばかりでした。
なにしろ太陽の輝きが違う、月だって線香花火の先っぽみたいにオレンジ色にぼってりとしていて幻想的、それに「海に浮かんでる」って絵ずらは「やられた」としか言いようがないほどきれいでしょう?
そして印象的だったのが、男も女も老若関係なく当たり前にかっこいい!
いや、年取ってる人の方が渋いのなんのって。
妊婦だってへそ出しファッションに女優サングラス、子連れママだってpucciやディオールのウインドウから抜け出してきたんじゃないかって迫力。そしてそんな見てくれ重視の国かと思いきや、何が感動したって、誰もが子供を見守る眼差しの暖かいこと。自分の子供だって、よその子だって関係なしであったかいのです。
ベビーカーでバスに乗ろうとすると、後ろの席や道路を歩いてるおじ様が飛んできて、「ジュブゼット?」(お手伝いしましょうか)と持ち上げてくれる。
日本のおじ様がた、本当にかっこいいのは、取って付けたレオン風ファッションではなく、こういう「熱さ!」ですよ、うん。
「私もこんな国で子供を産んで、ゆったり子育てをしてみたい!」そう感じる心の声は、今となっては直感そのものだったのでしょう。
その翌月、ずっと欲しかった第2子の妊娠に気付いた時は「ああっ、このお腹の子は自分をモナコで産んでって言ってる!」と、思い込みの激しい私が一人で盛り上がるには完璧なタイミングでした。
そうなるともう誰も止められやしません。
「輝く太陽の中、海辺をベビーカーでお散歩。そして疲れたら、オープンカフェでクロワッサンとカフェオレ。カフェのかっこいいギャルソンとも「ボンジュール」「サヴァ?」なんて顔なじみになっちゃったりしてね。」
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「日差しがきついから、赤ちゃんだけでなく私も帽子が必要だわね。でも日本でかぶる黒とかブラウンじゃだめなのよ。鮮やかな日差しには鮮やかな色、オレンジとか、パープルとか、いやいや柄物もいいかもね。」
 
勝手なイメージは膨らみに膨らんでいきましたが、同時にお腹も膨らんでくるわけだから、一人勝手に創造を楽しんでるならともかくとして、これを実行に移すなら時間は限られてるわけです。
そこで何よりまずは、夫にドキドキのプレゼンテーションをせねば先に進みませんよね。
 
「年齢の事を考えると、多分この子は私にとって最後の子育てになると思うの。一人目の時は楽しいと言うより、余裕がなくて大変であっという間だったけど、今度の子とはゆったりした自分で向き合いたい。この子をモナコで生んで、ゆっくり子育てを楽しみたい。だから、「いつか」の予定を早めて「今」に軌道修正して欲しいんだけど」
 
10年ぶりの妊娠。40歳という高齢出産であるうえ、それまではしょっちゅう「あっち痛い、こっち痛い」と自称虚弱体質だったはずの私から、いきなりの「海外出産、子育て計画」を聞かされた夫は「もともと無茶な女やとは思うてたけど、今度はまた有り得ん無茶なことを言い出しよった!」
と思ったそうです。
私にしたら、いきなり「却下」ではなかったものの、夫の表情を見ているうちに、自分が言ってる事の無鉄砲さを自覚させられ、取り合えずそれ以上の深追いはしませんでした。
 
そして数日後夫から、「ようやく世の中の人が俺のウォーキングに耳を傾けてくれるようになった今、おれの仕事はこれからや。スタートラインに立ったばっかりや。まだまだ日本中を回って、一人一人の人に伝えていきたいことがたくさんある。せやから、お前たちと一緒にずっと向こうにいることは出来へん。
離れる時間が当然長くなるけど、それでもお前が大丈夫だと思えるんなら、お前の情熱を大事にしたらええ。もともと俺が大好きな場所や。家族がそこで待っててくれることは何よりも嬉しい、俺が毎月会いに帰るから。」
と私が予期せぬ答えをくれました。
そこで私達は話し合い、夫は3週間日本で目いっぱい仕事をし、残り1週間から10日はモナコでゆっくり家族と過ごすライフスタイルにしよう、それなら普通のお父さんたちが子供と過ごす休日の1ヶ月のトータルと変わりないんじゃないかと、そして夫もその間は家族のことを気にせず、思う存分仕事に専念できるんじゃないかと、夫婦のけっこうシビアな話し合いは毎日夜中まで続きました。
 
数ヵ月後12月に2回目に訪れたモナコは、グレースケリー病院で妊娠経過を診ていただき、ここで出産をしたいけれどそれが可能かどうかをドクターに打診、そして東京のインターナショナルスクールに通う10歳の長女の学校を決める旅でした。
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長女は学校があるので私の妹に来てもらい、夫は12月で特に忙しく、私が代表で下調べに出かけることに。
 
ドクターの返事は「順調ですね、何の問題もありません。貴方のしたいように」でした。
 
学校は各学年定員が決まっており、娘さんの学年に空きがあれば、同じインターナショナル同士なので現校の推薦状があれば試験もなしで入れるとのこと。
そして、恐る恐る長女の学年を言うと、「あっ、一席だけ空きがありますね。」と言われました。
私は街なかの公衆電話から日本で仕事をする夫に電話を入れました。
「!!!(最初言葉にならない)。すべてが私たちを歓迎してくれてるわ!」と。
もちろん、私がオメデタイと言うことは重々承知の上ですけど、でもそういうふうに思う時ってありません?
産婦人科の先生は、変わった人ねと言わんばかりの不思議顔で「お好きにどうぞ」と言っただけでしたし、学校もたまたま空きがあっただけのことなんですけど。
だけど、何をどうしてもこうしてもうまく行かない時、そういう時はそのまま強行しても、ろくな結果がついてこないけれど、なんだか、あれ?あれ?と、思ってた以上に事がスムーズに進んで、これはどこかにいる神様からの「Goサイン」かもって思える時ってないですか。
それ以上に夫が私の情熱を応援してくれたこと、私のことを無茶だと言わず「由美子さんらしくていい」と応援してくれた友人に恵まれたことも、それこそが私の幸せなところだと、今も限りなく感謝しています。

「2002年3月11日」
3回目にモナコへ旅立つ時、私は臨月に入る前のぎりぎり飛行機に乗れる日でした。

私の両親には、彼らにショックを与えたくなかったので正直に、「40にして、生まれて初めての海外生活で、英語もフランス語も出来ないし、夫がいないことが前提で、住むところも決まってないのに、モナコに行って向こうで子供を産む」とは言えず、ちょっと拓也さんの仕事で家族で海外にいくことになった、と大嘘をつき、それでも「えーーーーっ!!!!!あんた、臨月でしょう!ちょっと拓也さん、何考えてるの?」と延々止められました。
私より1か月後に、初めての子の出産を控える妹にだけは本当のことを伝えましたが、「由美ちゃんと一緒に子育て出来ると思ってたのに」と電話口で泣かれてしまった時はぐっときました。
 
そして前日に荷作りを始めたころから、あんなに誰も止める事のできなかった私の心に気持ちの変化が現れました。
出産直前、モナコのマルシェのパン屋さんで
どうして夫も、長女も、やっぱりやめようよって言わないんだろう、普通1回ぐらい言わない?私に気を使ってる?いやいやまだ時間があるから実感が湧いてないのかも。でももう明日よ!「行かないでくれ」とか、「ママ、私やっぱり行きたくない」とか言ってくれたら、今ならまだ間に合うのに。もしもーし、2人とも聞こえてる?
 
翌朝、今も昔も多忙な夫はその日一緒にモナコに行くことはかなわず、成田で私と長女を見送った帰り道、成田エキスプレスの中で涙を拭うことなく泣いてたそうです。(目撃してた方、メール下さい!)
そして、やっとその時が来ました。
ものすごいパパっ子で、私が寝たあともこっそりと夜遅くまでパパの帰りを起きて待っていたような長女が、出発ターミナルで「じゃあね、先に行っててくれよ」とパパに言われ、わんわん泣いて離れない姿を見た時、私は内心ほっとしました。
「やっと言ってくれたのね。本当にうちは遅いんだから」
 
言いだしっぺのくせにちょっぴり不安になってた私は、これで大義名分が出来たことだし、白紙に戻せるーみたいな気持ちでした。
みんなには「もう小麦が泣いて行きたくないって言うのよ、お騒がせしました。」って言えば誰だって「そりゃそうよ!もともとが無茶なのよ」で終わる話だし。
 
で、物分りのいいママっぽくかっこ良さげに、「ごめん、ごめん。ママが悪かったわ。あなたがそんなに辛いならやめておこうよ。どうしても行かなきゃならない理由があるならともかく、ママのわがままだったわ。日本で出産して、今まで通りパパと一緒に暮らそうね」
と言うと、「やめてよママ。あたし行くよ。行きたくなくて泣いてるんじゃない。ただ寂しくて泣いてるだけ。パパと離れるのがこんなに寂しいと思わなかったんだ。ごめんね」
 
10歳の娘の反応は私の頭の中を真っ白にしてくれました。
涙を拭いた彼女に、腕を引っ張られるようにして(頭が真っ白でしたからね)搭乗ゲートまで行ったものの、「ね、小麦やめようよ。今ならまだ全然やめられるし、パパにも迷惑かからないんだから、帰ろうよ。ね、ね!」(無反応)「ちょっとー、帰ろうって、小麦が言ってよ!」とみっともなーい私に、ふっ切れた表情の娘は「やだよ、私モナコに行くよ。(一度しか行ったことのないあんたの中で、いつの間にそんな決意が出来上がってたわけ?)ママがやめても私は行くよ。(なんでそうなるわけ?)向こうでがんばるってパパと約束したんだもん。」といつの間にかインディペンデント。
プリンセスグレース病院産婦人科にてクリステル紗々2850グラム
プリンセスグレース病院産婦人科にてクリステル紗々 2850g
 
3日後に退院 病院の前で
3日後に退院 病院の前で
かくして12時間のパリまでの機内も、パリに着いても、モナコに着いても、延々泣いてたのは私でした。
最初の勢いとは裏腹に、超かっこ悪くてお恥ずかしい話ですが、これがあの日のありのままの私の心の内です。
この頃、ようやく笑って言えるようになりました。
小麦、最後に背中を押してくれたのはあなたでしたね。ありがとう。
10歳違いの姉妹
10歳違いの姉妹

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みなさまからのコメントのご紹介
旦那様がモナコに住みたいと思ったきっかけの話が印象的でした。なぜなら・・・私もこんなイメージのところに住みたい!と長年温めていたものがあって、それがモナコの写真をパッと見た時に「ここだー。」と思ったので、意外な共通点にびっくりしました。

更なるモナコの話を楽しみにしています♪ きゃんきゃん

初めまして^^
モナコでの生活は本当に素敵で楽しそうで、見させて頂いてるこちらも幸せな気分になります。
風景や建物も勿論ため息が出る程良いですが、由美子さんの幸せそうな表情が、私の癒しでもあります^^
素敵な街で素敵なお店に入って美味しいお茶を飲む・・・。
育児でストレス満開の私にとっては夢の様ですが、由美子さんの日記を読んでると、自分がそんな体験をしたかの様な気になります。
もうちょっと頑張ろっかな と思えます^^

夢は捨てちゃーあかんですよね^^ 坂田千穂

こんにちは!マダム日記拝見させてもらいました!
私も2004年5月にF1MONACOグランプリ観覧がデビューで、それから、ご縁有りまして、仲間と楽しみに現在毎年行っております!デュークさん見たいに、いつかは、夫婦家族ー緒にモナコに住んで、すばらしい環境で暮らしてみたいです!
その為に、毎日努力を続けています!
夢は、叶うのですね!教えて頂きまして、ありがとうございました。頑張ります! 宗我泰道

モナコ日記再開楽しみにしていました!(遅くなりましたが・・)前回のモナコ日記、モナコに住む決意をされた時は迷っていたこともあったのですね。そうですよね、旦那様と離れ離れでしかも妊婦さんですものね。。
でも由美子さんの今までの日記を見ているといつもどこからか光に照らされているような何かに守られているようなそんな気がします。家族の愛情や絆でしょうか。それを読んでいてこちらも元気が出るのです。不思議と。
これからも楽しみにしています♪
もうすぐクリスマスです。モナコのクリスマスってツリーやイルミネーションが豪華で華やかそうなイメージですがいかがですか?日本から遠いのでなかなか行けませんがヨーロッパ大好きなので日記でお話など聞ければうれしいです♪ ヒロ

日記を拝見させていただき、人生の決断の時に遭遇したときの感情の変化に心打たれました。
私事ではありますが、年齢的にも地域の面(北海道)でも先生に弟子入りするにあたり一大決心でした。あの決断がなければ今の私はいないのですね。
あの時の直感を信じ先生の下お勉強させていただき、充実した日々を送らさせていただいています。
感謝しております。モナコでお会いした由美子さんの素敵な笑顔を目標に国広麗の個性を育てていけたらと思っております。
今後も楽しみにしております。 デュークズウォークプロフェッサー国広麗

こんにちはぁ。再開楽しみにしていました!
ステキな日記、ありがとうございます!
一緒に当時の思いに戻り、決意と愛をじんわ〜り感じてしまいました。小麦ちゃんに拍手!!(パチパチ)
セレブバリバリバリューで羨ましいなぁって思ってましたが、ちょっとモナコが近くなってきました(#^.^#)
あぁ〜、私はデューク先生や先生のご家族にも支えられているんだわぁって。感謝です。
デュークズウォークは骨太で楽しいわけやわぁ!やっぱり素敵!
これからも、由美子さんのキラキラ思いを発信して下さい!モナカを食べながら、日本から楽しみにしています。 シュンシュン♪ デュークズウォークキュレーター☆小口洋子

モナコ日記の再開とてもうれしいです!読み終わってちょっとだけ涙出てしまいました。優雅なモナコ生活という面しか見ていなかった私。そこに至るまでの家族の葛藤、絆…。ほんと家族ってすごいですね。そして由美子さんのひらめきのすごさにもびっくり!
これからも日記、楽しみにしてますっ♪ ゆり

新しくなったモナコ日記、感動しました!これからも楽しみにしています♪
デュークズウォークセカンドプロフェッサー 山本晴香

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